牛の獣医さん達 野満匡祐
熊本県 山鹿市 取材日:2024年5月15日
900日ルールの真実
記者「農家にとって牛の乳房炎の予防や治療は非常に重要だと思いますが、そのポイントについてお聞かせください。」
野満先生「確かに乳房炎は非常に重要な問題です。特に農家にとって体細胞数を管理することが大切です。大量のデータを統計的にスクリーニングかけたところ、その中で1番関係があるのは、生涯搾乳日数でした。私の研究では900日以下の生涯搾乳日数であれば、体細胞数が上がらないことが証明されています。生涯搾乳日数とは分娩からの日数を表していて、それが累計900日以下にすれば、体細胞数は上がらないということです。だいたい4産以降の牛は体細胞数が上がってくるということを意味します。世界で最も乳量を搾っているイスラエルも4産目以降の牛は搾らないと言われています。添加剤やビタミンなどの影響は少ないということですね。また、臨床型の乳房炎のケアというところも農家にとって大事になってくると思います。私の診ている農家にはのこくずが舞っているような場所での搾乳はしないように言っています。のこくずにはたくさん菌が舞っているので乳房炎になるリスクが極めて高いのでおすすめできません。」 記者「具体的にどのような統計的手法を用いているのでしょうか。」 野満先生「約20年前から、農家のデータを収集し、Sプラスという統計処理の中の樹形モデルという統計技術を使って分析し、体細胞数に最も影響を与える要因が生涯搾乳日数であると特定しました。このデータは学会でも発表しており、多くの農家に役立ててもらっています。」 記者「飼料や栄養管理についても教えてください。」 野満先生「飼料や栄養管理も非常に重要です。例えば、TDN(カロリー)やCP(粗蛋白質)など、30項目以上の栄養素をバランスよく管理する必要があります。私はこの中でもTDN、CP、CF(粗繊維)、NDF(中性デタージェント繊維)、ADF(酸性デタージェント繊維)、カルシウム、リン、ビタミンAについては特に慎重に見ています。具体的にはDM(乾物;飼料から水分を除いた部分)中TDNは74〜75%にするようにします。またDMI(乾物摂取量)は22〜25kgになるように調整します。夏場などは食い落ちで20〜30%DMIが下がってしまうのでそれを補うように濃度を調整して必要な成分を摂取できるようコントロールしていきます。それをコンピュータを使って最もコスト効率の良い飼料の組み合わせを線形計画法という処理で見つけます。これらをAIで正確に管理することで、購入飼料であっても通常の半分ほどのコストで牛の健康を維持することができます。」
記者「繁殖管理についてもお聞かせください。」
野満先生「繁殖管理も飼料設計が基本です。栄養バランスが整っていれば、種付けの成功率も高まります。つまり、さっき言った成分の項目をちゃんと守っておけば必然的に種付けも良くなるということです。繁殖を語るなら餌から語らないといけないと思いますね。また、その先で言うなら種付けは人工授精ではなく本交(自然交配)でするようにしています。アメリカでは、ほとんどが本交を行っていますが、これは種付けの成功率が高いためです。また、牛の発情を見る手間が発生しないというメリットもあります。発情を見逃さないためのICT技術も活用されていますが、統計的に見て効果がない場合もあります。繁殖管理も同じく科学的なアプローチが求められます。」 記者「牛の病気予防についてはどのようにお考えですか?」 野満先生「病気で対処しないといけないのはやっぱり乳房炎と繁殖障害、あとは内科的治療(下痢や第四胃変異など)です。下痢の原因は様々ですが、飼料の質が原因のもので言うなら繊維が不足すると下痢を引き起こすことがあります。飼料設計の見直しが必要です。例えば夏場とかに餌を食べないから嗜好性の高い餌をあげようと思って、繊維が低く栄養価が高いものをあげるという判断などが挙げられます。カロリーは高いので乳量は出るかもしれませんが、逆に胃腸障害が発生して下痢をしやすくなります。また、牛舎の環境も重要で、乾燥して清潔な環境を保つことが病気予防に繋がります。乳房炎や繁殖障害も飼料設計が関係しています。飼料が適切に管理されていれば、これらの問題も減少します。」 科学と環境で守る牛の健康
記者「牛のストレス管理についてお伺いします。飼料設計以外で、例えば音楽を流すといった方法についてどう思われますか?」
野満先生「ストレス管理において音楽などは関係ないと思います。牛にとって一番大切なのは静かな環境です。牛は夜中に活動することが多いですから、昼間は静かに過ごさせるのが良いでしょう。また、アメリカでは24時間体制で牛を搾乳しており常に明るい環境ですがあまり良くないのではと私は思っています。また、最もストレスを感じるのは泌乳と分娩の時ですから、この時期の栄養管理も非常に重要です。」 記者「泌乳と分娩が一番のストレス要因なんですね。」 野満先生「泌乳と分娩のストレスは、牛の栄養バランスに大きく影響します。牛は本来、草だけを食べて自然に育つ動物です。ですので本来は4〜5kgほどしか乳量は出ないのですが、改良された乳牛は大量のミルクを生産します。つまり本来のポテンシャルのをはるかに超える乳量が出ていっているということです。そして牛は食べる以上に乳量が出て行くことになるので脂肪を削って乳量を出すということになります。ですので皮下脂肪をつけて、それを代謝しながら、食べた餌と合わせて乳量を出すということです。だから急激に痩せるということになります。そういうことを繰り返すからものすごくストレスがかかることになります。そのため、栄養バランスを考慮した飼料設計が必要です。」 記者「そう考えると脂肪が乗った牛の方が優れた牛のように感じますね。」 野満先生「しかし、脂肪が乗った牛が気をつけないといけないのは脂肪肝になったり病気になりやすくなります。ですのでほどよい脂肪のつき方が重要です。つまり分娩から乾乳までにどんな餌をやるかも重要になってくるということです。牛乳は一般的に全固形(牛乳から水分のみを除いた分)が12.3%程と言われています。ですので40kg搾乳するのに肉は5kg程作り出されます。肉牛で言うとDG(1日の増体量)1kg行けばすごいと言われますが乳牛はその5倍の肉を作り出していると考えると相当なストレスがかかっているといってもいいでしょう。終わりのないマラソンを走り続けているような負荷がかかっていると考えられます。」
記者「牛のストレス管理で、泌乳と分娩時の餌の管理以外に気をつけていることはありますか?」
野満先生「牛舎の環境管理が重要です。特に牛床を清潔に保つこと、乾燥した環境を提供することが重要です。また、牛は体の中で乳房が最も熱い場所ですので、乳房を冷やすために涼しい場所を提供することも必要です。ストレスを最小限にするためには、清潔で快適な環境を整えることが一番です。」 記者「黄体の良し悪しが繁殖に与える影響について教えてください。」 野満先生「黄体は、牛の卵巣内で排卵後に形成される構造で、黄体ホルモンを分泌して妊娠を維持します。黄体が正常に機能すると、このホルモンによって下垂体からの性腺刺激ホルモンが封印され、卵巣周期がブロックされます。河川にたとえるなら、黄体はダムのようなものです。黄体ホルモンが川の流れをコントロールしているイメージです。黄体期にはダムの水量(性腺刺激ホルモン)は増し、黄体退行時には、ダム決壊の様に一気に水(性腺刺激ホルモン)が流れ出し、明瞭な発情兆候を示します。しかし、弱いダムで、だらだらと垂れ流している状態だと、いざ発情のタイミングになっても変化に気づけません。」 記者「ストレスが牛の健康や繁殖に与える影響について、もう少し詳しく教えてください。」 野満先生「ストレスは牛の健康に大きな影響を与えます。ストレスが過剰になると、下垂体を通じてACTH(副腎皮質刺激ホルモン)の分泌が増加し、それにより副腎皮質からのコルチゾールの分泌が増えます。このコルチゾールの増加がGTH(性腺刺激ホルモン)の分泌をおろそかにします。その結果、発情周期が乱れる可能性が高くなります。このように、ホルモンバランスの変化が生殖機能に直接的な影響を与えることがあります。ストレスを最小限にするためには、清潔で快適な環境を提供し、適切な飼料や栄養管理が重要です。」 記者「最新の治療技術や興味深いアプローチについて教えてください。」 野満先生「最新の治療技術としては、飼料設計の最適化が挙げられます。今現在熊本はTSMCが来たことで土地がなくなってきているという問題が発生しています。ですので土地がなくても効率的に牛を飼育できるように、科学的な飼料設計が求められています。今後も新しい技術や方法を取り入れながら、効率的で持続可能な畜産を目指していきたいです。」 科学の力でユニバーサル酪農へ
記者「牛舎の設計や外部環境の影響についてお話しいただけますか?」
野満先生「牛舎の設計に関しては、開放型の牛舎が理想的です。壁がない方が風通しが良く、牛にとって快適な環境を提供できます。ただし、冬には防風ネットなどで風を防ぐ対策が必要です。暗い環境がストレス軽減に良いという意見もありますが、日光に当たる環境がいいのではないかと思っています。日光はビタミンDを活性化させる働きがあり、紫外線に当たったビタミンDはホルモンに変わり、カルシウムやリンを胃腸や腎臓から吸収したり、骨からカルシウムやリンを溶出させるのをサポートします。日光に当たらないとその作用が上手くいかず、カルシウムやリンの代謝が阻害されてしまいます。乳熱になりやすくなるなどが考えられますね。ですので暗い環境だけでは健康に悪影響を及ぼす可能性があります。」 記者「牛舎内でのストレス軽減のための具体的な方法について、さらに教えてください。」 野満先生「やはり密飼いは避けるべきだと思います。密飼いは乳頭の踏傷のリスクにもなります。また、牛舎内でのストレスを軽減するためには、搾乳後にすぐに水を飲める環境を整えることが重要です。搾乳後は特に喉が渇くため、すぐに水を飲めるようにすることでストレスを減らすことができます。また、冬季には寒さから守るために防風ネットを設置し、風が直接当たらないようにすることも大切です。ですが、逆に牛は15度から20度を超えると暑いと感じる動物なので、それ以上の温度ではストレスを感じます。牛舎内の温度管理も非常に重要です。」 記者「最後に、座右の銘について教えてください。」 野満先生「私の座右の銘は『科学をするという事は、再現性があるという事』です。科学というのは、同じ条件下で同じ結果が得られることが基本です。これが再現性です。農業や飼料設計においても、この再現性が非常に重要です。同じ条件を整えることで、安定した成果を得ることができます。例えば、どんな餌を使っても、一定の条件下であれば同じ品質の成果を得ることができます。再現性の高い農業が実現し、結果的に生産性が向上し、経営の安定にも寄与します。また、ユニバーサル酪農という技術に左右されず、誰でもできるように標準化された酪農の実現を目指し農業の未来をより明るいものにしていくために、日々努力を続けていきます。」 PC
野満先生が使用しているPCは、畜産データ管理をサポートするソフトウェアを搭載しており、治療履歴や使用薬品の情報を簡単に記録・共有できます。これにより、牛の状態の確認がスムーズに行えます。また、トレーサビリティを確保し、消費者が安心して食品を購入できるようにするための信頼性をこのシステムで担保しています。農家と共同でデータベースを作っていくことで統計学的に信頼できる情報を取得し牛の改善に役立てています。
Writer_T.Shimomuro
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ジ・エンブリオ 代表獣医師 安倍明徳
熊本県熊本市 取材日:2023年8月21日
熊本県で約40年にわたり受精卵移植に関わる安倍明徳獣医。熊本県酪農業協同組合連合会を定年退職後は、ジ・エンブリオを開業。現在、年間の移植頭数は2,000頭を超える。自ら学び、技術を高める姿、なおかつ人の輪を大切にし、感謝の気持ちを忘れない安倍獣医の姿は、同郷・福沢諭吉の言葉「独立自尊」そのものだと感じた。
①農家の利益を生み出す― 獣医師を志したきっかけ 高校三年生の時、心臓の手術をしたんです。その経験から医者を志しましたが、医者になれるほどの学力はなく、動物が好きだったので“動物の命を助けられる獣医師になりたい”と決心しました。酪農学園大学に入学し、当時は馬の獣医になりたいと思っていました。 ― 受精卵移植(ET)との出会い 大学3年生の夏、北海道日高管内の診療所で獣医実習として馬の勉強をしていました。ある日、先輩から「明日ETっていうのがあるから、ホルスタインの右側けん部を剃毛しておけ」と言われたんです。ETってなんだ?と疑問に思っていると、翌日多くの人が集まり、オーストラリアの技術者が牛の腹を切開し、ガラスピペットで直接受精卵移植をする現場に立ち会うことができました。その技術と早さにびっくりしたことを覚えています。 ― 熊本県酪農業協同組合連合会(らくのうマザーズ)に就職 大学卒業後、縁があって熊本県酪農業協同組合連合会に就職し、牛の診療をしていました。県酪連に入って3年後、ホルスタインの遺伝子改良を目的に熊本でも受精卵移植をしようという話になり、獣医師3人によるETチームが発足。最初は、採卵をしてもなかなか卵が取れず、やめようやめようと思っていました(笑) 受精卵移植が軌道に乗り始めると、今度は当時の会長がカナダ・アメリカから輸入牛を導入することを決めました。4年間で200頭を導入し、その輸入牛を中心に採卵・移植を繰り返し、ET技術の習得と遺伝子改良を進めました。 ― 体外受精卵の導入 その後、ホルスタイン雄子牛やF1子牛の価格は下落し、黒毛和種の採卵が増えていました。しかし、当時の採卵は卵が取れたり取れなかったりと効率が悪く、かなり投資をする必要がありました。 平成2年12月、品川の家畜バイテクセンターを訪れました。試験室でシャーレ中に入った紋次郎の体外受精卵を見た時、これは農家のためになると確信したんです。早速、3ヶ月にわたり紋次郎の新鮮体外受精卵を熊本に空輸してもらい、県内の酪農家のレシピエントに移植しました。結果、受胎率が良く、体外受精卵移植事業が開始されました。 ― 一番は農家の利益のために 診療・検診を通して牛の健康を守ることは、獣医として当たり前です。しかし、それが農家の利益になるかというと、そうではありません。獣医として大切なことは、農家に利益を提供できるかどうかだと思います。これまで体外受精卵移植の推進やETスモール市場の立ち上げなど、様々なことをやってきたのはそのためです。自分の働きで利益が生まれ、感謝された時、自分の存在意義と喜びを感じます。 ②信頼に感謝し、絆を育む― 世代を超えて繋がる 県酪連を定年退職後、ジ・エンブリオを開業しました。現在、移植に回っている農家のなかには、県酪連に勤めていた時代を含めると三世代に渡って付き合いのある農家もいます。第一に、私を信頼してくれていることに感謝し、頼まれたらNOとは言わないようにしています。 ― 仲間との繋がり 酪農学園大学には全国から学生が集まっています。大学時代は多くの友人に恵まれ、今でも関係は続いています。結婚式に呼んでもらって北海道に行くことも沢山ありましたし、季節ごとに特産品を送りあったりしています。また、酪農学園大学は同窓会やOB会が盛んで、獣医同士が世代を超えて交流することができています。 ③自己鍛錬を怠らない― 身体が資本 高校の時に手術を経験したことから、大学時代からバスケットボールを始め、社会人になっても続けていました。その後もバスケットボールの試合で審判をし、体力維持は意識しています。現在も時間があれば運動公園に行き、10㎞走ることもあります。仕事をし続けるには体力が必要です。体が資本ですからね。
Writer_R.Tsujiwaki
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